火垂るの墓について

火垂るの墓という物語がある。火垂るの墓の主人公が厄介者扱いされるからといって親戚の家を出るという無謀な行動をとったことを非難する意見がある。我慢して親戚の家にいえば主人公たちは死なないですんだのだから愚かな行動だという意見である。それでもし主人公たちが我慢して親戚の家にいて生き続けることができたらどういう物語になったのだろうかと考えた。我慢しながら生きるということは人の心に深刻なダメージをもたらす。主人公たちは生き延びることができた場合、自分たちが生き延びることができてよかった、この生き方が正しかったのだと素直に感謝する気持ちを持って生きることができただろうかと考えた。人は弱いものである。我慢するという行為は苦しいのだ。要するに生き延びたけど醜い人間になりましたという物語になってしまうのではないだろうか。生き延びたけど醜い人間になりましたというのはごくありふれた物語で、ほとんどの人はそのような物語を生きざるを得ない。生き延びることはそれはそれでつらいことでもある。意に沿わないことをいっぱいしなければならないだろうし、場合によっては卑劣なことをしたり、大事な人を裏切ったりもしなければならない場合もある。生き延びるためにした卑劣な行為などが人の心に深刻なダメージをもたらす。その行為の後ろめたさを抱えながら生きるのでのびのびと明るく生きることができなくなる。自分があの行為をしたのは仕方なかったのだと心でいくら言い聞かせても、自分の心がそれを許すことはできないので、それで苦しむ。

あの時我慢しないで無謀にも出ていく選択をなぜしなかったのか、それで死ぬことになっても生き続けることよりましだったのではなんてことも考えたりする。

火垂るの墓の主人公が無謀にも出ていく選択をしたからこそ、悲しいけど感動できる物語になったのではないのだろうか。生き延びたけど醜い人間になりましたというありふれた物語をわざわざ作っても鑑賞する気にはならないであろう。

何か行動していればフリーライダーに見えない

人はフリーライダーだと思われることを避けたい。そのためには何らかの行動をしていればよい。行動をしている人はフリーライダーだと思われなくて済む。何もしていない人とフリーライダーの見分けはつかない。だからフリーライダーだと思われたくないという考えは雑な行動をする人を増やす。たとえば何らかの問題があるときにその問題解決方法がない場合も当然ありうる。その場合は何もしないほうが正解なのだが、何もしないとフリーライダーだと間違えられる恐れがある。そのため問題解決方法が現状ない場合でも問題解決方法はあるのだ!これがその問題解決方法だということをでっちあげて偽の問題解決方法を実行するとこの人はフリーライダーではないとみなされて評価されたりする。だから行動すべきでないときにも行動する人の方が評価されてしまうのだ。

SNSの魅力

SNSの魅力は自分の発言で人に影響力を与えることができることに対する心理的満足感である。まわりの人に影響力を与えることは自分の生存を有利にできることにつながる。しかしこれはあくまで自分が実際交流のある人たちに囲まれて暮らしている実際の共同体の中でのことである。ある人が現実の自分の周囲にいる人たちに対して何か発言をして、その発言通りに物事を行ったら共同体内でよいことが実現できることに繋がったら、その人は共同体の人たちから一目置かれて評価されるだろう。その実績がその人の共同体内での地位が上がることにつながる。それが具体的メリットである。しかしSNSでの発言の場合はどうか。自分の人生とはかかわりのない不特定多数の人たちに自分の発言が評価されることは心理的な気持ちのよさを手に入れることができるが、メリットはそれだけである。具体的に自分の社会的地位が上がることがもたらされるわけではない。具体的な利益はない、心理的満足感という気持ちが満たされることが起こるだけである。それはよいことなのだろうか?

現実の人間関係の中では地位が低く、評価される立場にいないので、実際の人間関係の中で何かを発言したとしても無視されるだけで誰も聞く人がいない場合であれば、SNSの中だけでは自分の話を聞いて評価してくれる人がいる場合は心理的満足感しか手に入らないとしてもメリットにはなりうる。実際の人間関係の中では何も得られないのに比べれば、心理的満足感が瞬間的にでも手に入ることになるのだから。

SNSからキャンセルされると不幸せになるのか幸せになるのか

誰かがSNSのIDを凍結される嫌がらせを受けてSNSができなくなると、その人はその後不幸せになるのか幸せになるのか。

もしその人がSNSができなくなることでリアルな人間関係にちゃんと向き合ってそこで人間関係を深めることができるようになるのならば、その人はその後充実した人生を送ることができて幸せになることが考えられる。SNSでキャンセルされることがかえって幸せにつながる。もしSNSでキャンセルされることがなく、ずっとSNSをやり続ける結果、その人がリアルの人間関係から遠ざかってしまいリアルな人間関係を失ってしまい、SNSにのめりこんでそこでの承認ばかり求めるようになってしまったら不幸せになることが考えられる。

SNSをできなくさせることは嫌がらせの手段でその人が不幸になることを望んでやるのだが、かえってSNSをやめさせることが幸せにつながるのなら、その人に不幸になってほしいのならばその人がSNSを続けられるようにする方がよいことになる。つまりSNSからキャンセルしないでおけばその人はその後不幸になるかもしれない。

人口減少が問題?

人口減少が問題ではないのではないのか。すでに増えてしまった今の人口の分の食い扶持を維持することが難しくなっていると考えるようになっていることが問題なのである。すでにいる人口の生存が維持できないと内心思っているので人口を増やす気にはなれない。今いる人口規模の多くがいなくなればまた人口を増やすことを目指せるだろうと内心考えているので、増えることより減らすことにつながる言説が増えている。

人はなぜ争うのか

人はなぜ争うのか。それは争っている間は誰が自分の味方で誰が敵なのかが明確になるからだろう。誰かと争いを始めれば、自分の周囲にいる人の誰が自分に味方をしてくれるのか、誰が敵側につくのかが明確になる。自分の味方が誰であるかが可視化されると安心できるのだ。争いがない状態では自分の周囲にいる人たちは敵でも味方でもない。彼らはその場の実際の状況や気まぐれな理由で自分に協力をしてくれたりしてくれなかったりする。彼らの行動はその都度バラバラなのだ。ある時は協力をしてくれたけど別のときは協力をしてくれなかったりする。その時の状況次第で適当に変わる。またほんの気まぐれで誰かを助けたい気分だったから協力を申し出てくれる時もある。敵でも味方でもない人たちというのはそういうものだ。いつも協力をしてくれるわけではなく、いつも協力をしないわけでもない。しかしそれは安心できない。常に自分に味方してくれる人、常に自分に協力をしてくれる人がいてほしい。だから争いを起こす。争いを起こせば敵味方が明確になって安心できるようになる。それが人が争う理由だ。敵味方がはっきりしないあいまいな状態の人たちに囲まれている状況はいやなのだ。

責任を負うことのメリット

責任を負う行為をする人がいないという問題がある。なぜなら責任を負うことをしても何もメリットがないから。メリットがないどころか責任を負う立場になったら周りの人たちから責められるだけであるからだ。しかしメリットはある。責任を負う立場という面倒な職務を自らやろうという目的は共同体の延命である。自分の所属している共同体が大事だからそれを延命させたいという目的のために行う。メリットはそれだけだ。たとえ同じ共同体の人たちから文句を言われることばかりになろうとも、自分の所属する共同体が延命させられることが達成されるのなら目的は達成された。そのあと同じ共同体の人たちが責任を負う立場になった人をその共同体から追い出すことになろうとも、自分が大事に思った共同体が延命していくのなら目的を達成したことになる。責任を負う立場を担うということはその共同体の中で自分が生き続けることを目的としない。目的は自分が大事に思う共同体が生き続けることができるようになることだけだ。そのあと自分がその共同体の中にいることができるかどうかはどうでもいいことになる。自分が共同体内にい続けることはどうでもいい、それよりその共同体が大事だから生き続けさせたいと思う人でなければ責任を負うことを自ら選択しないだろう。