表現規制と物語

「不道徳お母さん講座 私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか」という本がある。この第1章 読書と道徳 のところでそもそも小説は人心を惑わすウソなので有害であるとみなされていた時代があったことが書かれている。平安末期から鎌倉時代にかけて書かれた「今鏡」「宝物集」「今物語」に紫式部が地獄に落ちた伝承が記されているくらい、物語を書くことが罪業扱いされていた時代もあった。物語を書いて人の心を惑わせることは、仏教の五戒のうちのひとつ「不妄語戎(うそをついてはいけない)」に触れるとされていた。朱子学に入れ込んだ後光明天皇は「源氏物語」「伊勢物語」が流行するから国が衰えると語り、和歌とともに「源氏物語」を淫乱の書と毛嫌いした。和歌もダメだったようだ。有害とみなされていた小説が考え方が変わって教科書に載るにまでいたる道のりを子供向けの小説が娯楽として受け入れられていく文化史と共に追っていく流れになっていて大変面白い。

子供向け小説の受容と変遷の過程部分が読んでいて楽しい。著者は小説(物語)好きなのだろうと想像した。当時ヒットした少年世界の内容で現代文明でチートして異世界を攻略する、現代の異世界ファンタジー小説のような内容があると指摘していて今の物語世界とさして構造が異なっていないのだなという感想を抱いた。その後少年向け小説以外の文学作品に話がうつり、青年と文学の関係が新たな局面を生む。教育を受けて共同体の外側の世界を知った若者は、広い世界の中で自分の存在意義を根拠づける何かが必要になり、文学に耽溺していく。自我が目覚めた青年の内面を危険視する考えから表現規制の考え方が生まれる。しかし一度目覚めた自我を抑え付けるのは無理だろうことが分かる。

その後良書指定の動きが生まれ、今の推薦図書のような制度でよい表現と悪い表現を選別する考えで対応する方向へいく。

識字率の向上により農村や労働者階級の子どもたちが文化の消費者として大量に参入してくるなかで、急速に広まった刹那的な大衆児童文化が知識階級をおびえさせた。一方、講談本、漫画、豪華おまけつきの娯楽雑誌という新しい俗悪が登場したことで、古いメディアとなった文学は権威を付与され、感情をゆさぶって国民に道徳を刷り込む新しい役割を担うことになった。というのが最終的な流れになる。

まず創作された物語自体をよくないものと考える視点があったことに驚いた。表現規制というと悪いコンテンツを排除すべきだという考えがあると解釈されがちだが、物語自体が危険視されていた時代があったということは、物語が危険なものなのでは?

たとえば権力者のような立場の人がいたとして、権力者から危険視される物語があるとすればそれは権力者に都合の悪い物語内容になるだろう。そういうふうに考えると表現規制が規制したいのは都合の悪い物語内容というように考えることが可能ではないのだろうか。物語の人に与える影響力は大きいだろうから。