物語について

nlab.itmedia.co.jp以前これを読んでいてずっと考えていたこと。

「現実の方がむごい」

なぜむごい現実をあえて描こうとするのかなと。それは実際の「むごい現実」より物語に描かれた「むごい現実」のほうがましになるからではないのかと思う。

物語化された現実は、神の視点で描かれているからおきている状況が客観的な視点から描かれていて、より整理された状態になるのだと思う。

いじめを題材にしたマンガが出てくるけれども、実際に当事者がいじめを受けている状況ではこのマンガのような客観的な認識はたぶんできない。

実際のむごい現実は物語のように整理されたものではなく、もっと断片化されたショッキングな状況が不連続に続くわけのわからない混沌としたものであるのだと思う。

強い感情が生じた瞬間の情景が不連続的に断片的に思い出されるようなそんな感じ。

人が把握できる現実は小説やマンガ、映画のように一続きの流れのある物語のように進んでいくものと理解されるとは限らない。ショックを受けるような体験の場合は物語のようなきれいな形では認識されなくなる。そんな気がする。

“ヤバいマンガ枠”で捉えられる両者のマンガが受け入れられているのは、あのときのあのショッキングだった体験をマンガを読むことでもっと客観的な形で整理された形で受け止めることができて、理解できたという感覚をもたらすからではないのだろうか。

また物語を描いて他者に伝えるという行為は他の人とつながっている感覚を与えるものでもある。

表現をすることを多くの人たちがしたがる理由はそれだと思う。

以前「ものいうからだ 身体障害の心理学」南雲直二著を読んだのだが、そこにクオリアとコンプレヘンシオの関係について書かれていた。

クオリアとは主観的体験を伴う質感のこと。赤い花を見たときの赤いや腹痛におそわれたときの痛いという感覚。赤いや痛いは言葉で伝えることはできるが、生の感覚を相手が感じ取ることはできない。

コンプレヘンシオは内容を言葉などで他人に伝えることができる意識のこと。

生の表現であるクオリアを言葉や絵や音で表現したものはコンプレヘンシオ。

コンプレヘンシオは人間の社会性を支える大切なもの。意識の中のコンプレヘンシオの部分を増やすことが対人関係を円滑にするうえで必要になる。クオリアのほうが大きな部分を占めているような人は、自分の考えていることや感じていることを伝えきれないため、しばしば人間関係に支障をきたすことになる。

 

 人はクオリアという主観的な体験の質感を他の人が理解できる形であるコンプレヘンシオに変換して伝えることができなければ、他の人たちと意思疎通ができている感覚が得られないのだろうと思う。