快不快で物事を決めること

熊がかわいそうだから殺さないでという人がいる。熊を殺すことは不快な感情をもたらすのでやめてほしいのだろう。自分がかわいいと思う動物を殺すことは嫌なのだ。

しかし熊は人間に対して危険な動物である。熊を殺すことは人間にとって必要なことなので仕方がない。かわいいとかかわいそうだとかいう自分の感情に逆らって必要なら殺すことを選択すべきだと考える立場もある。

基本的に人は生き物を殺すことは不快になるように感情がセッティングされていると思う。おそらく生物を殺すことを不快だと感じられないようになっていたら、生物を殺すことにためらいがなくなる。ためらいがなければ平気で殺すだろう。

それは問題を引き起こす。おそらく生物を殺すことにためらいがなければ、次は人間を殺すことにもためらいを感じることがなくなる。生物を殺すことに不快を感じる感情は人間同士が殺し合いを簡単に始めることを抑止している。人間だけを殺すことに不快を感じるだけでは不十分だったろう。人間は人間を殺すことを考えるときに相手を人間ではなく獣、人間より下等な存在と思い込むことによって人を殺すことを無理やり行おうとした。だから生物を殺すこと自体を不快に思う感情を備えておくことに意味はあった。そしてその感情は動物保護という考え方を生み出した。ほかの動物が生きている環境は人間が生きていくために欠かせない状態であったので、動物保護の考え方が結局人間の生きていく環境を保つことに繋がる。だから生物を殺すことに不快に思う感情は人間にとって別の意味で役に立った。意図したことではなかったかもしれないが。

快不快に従って行動をする人間の性質は基本的には問題のないものである。

どちらかというと快不快に素直に従う人間が多数いたほうがよいだろう。

しかし熊を殺すことが議論になったり、別の弊害をもたらすことも若干ある。

必要性があるのに殺すことができない状況をもたらすことも起こりうる。

自分の快不快に逆らって物事を決めることも時には必要になるだろう。しかしそれは自分の快不快に逆らって行うので非常につらい決断になる。それは悩みながら苦しみながら実行されるぐらいで多分ちょうどよい。

熊を殺すことをかわいそうだという感情を優先する人たちを非難する意見もあるのだが、その人たちは快不快に忠実に行動をしない人がどのような人間なのか考えたことがあるのだろうか。

自分の快不快と分けて自分の行動を別の基準で決める人である。そのような人とつきあうのは難しいだろう。相手の行動基準が何かわからない相手だからだ。たいていの人は自分が快不快で行動を決めていることを知っているから、相手も快不快で行動を決めるだろうと予想する。だから相手が快になるだろう行動をしていれば、その相手とは良好な関係を築けるだろうと予想して行動を決めることができる。その相手と関係を断ちたければ、相手が不快になるだろう行動をしておけばいい。しかし快不快の基準とは違うその人独自の考え方に基づいて行動を決めている人がいた場合、そのいつもの戦略は通用しない。相手と良好な関係を築くために快だと感じる行動をしても相手が自分に対して良好な状態にならない。また相手が不快になる行動をして離れてくれるだろうと期待しても、相手が自分に近づいて親交を深めようとしてくるなんてことが起こるかもしれない。

たとえば相手が自分にとって生殺与奪権を握っている立場だったら相手の情に訴えて命乞いをするという戦略が使えない。情が通じない相手だからだ。

熊を殺すのはかわいそうだと主張する人の方が行動予測ができるのではるかにつきあいやすい相手だろう。

だから快不快に従って行動する人が多数派のほうが多分ありがたいことなのだ。