気持ちよくなるために協力するのか?
協力すると気持ちがよくなる。だから誰かと協力をしたい。しかし協力したくなるような人がいない。だから協力できない。本当は気持ちよくなるために誰かと協力をしたいのに、相手がひどい人物なので協力する気が起きない。協力できないのは相手がひどい奴だからだ。だから協力できないのは私のせいではない。という主張をしている人をSNSなどで見かける。
しかし協力することは気持ちよくなることだったのだろうか?人が協力するのは協力しないと生き延びることができないからではないだろうか?
過去の時代には協力するメンバーはたまたま同じ土地に生まれ育ってそばにいる人間であっただろう。しかしそばにいる人が一緒にいて気持ちがよくなる相手だとは限らなかった。一緒にいると不快で相手の言動は気に入らないし、協力する気が起きない相手であったりした。しかしその相手と協力して行動をしないと、生きていくことができないので、お互いに相手の不快さに目をつぶって我慢しながら協力をしていたというのが実際のところだったのではないのか。
たとえば前日に何かが起きて、お互いにひどい喧嘩をしている間柄になっている二人の人物がいたとしよう。しかし今日は昨日喧嘩をしていた同士が協力をしあって行動を共にしている。それを見て不思議に思った別の人物が「昨日すごい喧嘩をしていたじゃん、でも今日は協力しあっているんだ!」と言ったとしよう。そうしたら返事が返ってくる。
「昨日のことは昨日のことだ。まだ問題は解決せずお互いに相手を許しているわけではない。しかし今日はそのことは置いておいて必要だから協力するだけだ。協力が終わったらまた喧嘩状態に戻るだけのことだ」
そのような状態でお互いにいがみ合うときはいがみ合い、協力する必要が生じたときは協力していただけではなかったのだろうか。
だから仲の良い共同体が成立していたわけではなく、協力しないと生きていけないから協力が発生している共同体があっただけだったりしなかったのだろうか。
争いの原因
争いの原因は何なのか考えてみた。人は自分が嫌いな人たちと共存して生きていかなければならない現実を否定するために争いを起こすのではないだろうか。争っている間はその嫌いな相手(争う相手になる)と共存していかなければならない現実から離れていることができる。しかし争いはいつか終わりにしなければならない。終わりにしたらどうなるのか。争いの終結は停戦であり、たとえ争いに勝ったとしても嫌いな人たち(だいたい一人ではない、争いは集団vs集団の形になるので)がこの世界からいなくなるわけではない。また嫌いな人たちと共存していく現実に戻るだけだ。その現実がつらい。だからまた争いを起こしたくなる。いっそのこと生きることは嫌いな人たちと共存していくことであると定義してしまったほうがいいのではないのか。生きることはそもそもそのようなものであるのだ。
家族の問題
高EEとは、high emotion expressionのことで、感情表出の度合いが高い家庭、特に患者さんに対して強い感情表出をぶつける家庭を指しがちで、"業界"ではしばしば問題視される。実際問題、治りの良くない精神疾患の患者さんの家庭を垣間見ると、高EE家庭だったとうかがえる症例は多い。そうした症例の父母や祖父母も、精神科医の前では感情表出を今風に抑えようと努めるさまが見受けられる。しかし、精神科医の前以外では感情表出がきついことがさまざまなかたちで漏れ聞こえてくるし、感情表出を今風に抑えようとしても抑えきれていないさま、あるいは、顔面表情筋などに刻まれた痕跡などは、しばしば隠し切れないものである。
高EEという専門用語があるのか。ヒルビリーエレジーの著者の親の話が出てくるのだが、それが高EEの用語があらわす家族だったように思う。
感情的になってお互いに怒鳴りあったり、物を投げつけたりというすごい喧嘩をする両親だったようだ。母親がアルコールの問題を抱えていることも書かれている。
結婚をする人が減っているのはこの高EEの状態の家族になりたくないからだろう。
感情的になってお互いに怒鳴りあうような関係になりたくないのならば、結婚しないほうがよい、という思想があるのだ。ある程度の経済的な余裕のある人たちしか結婚しなくなっているのは、衣食足りて礼節を知るだからだ。経済的な余裕があれば、お互いに相手のことをののしりあうような喧嘩をしなくて済むだろうから。経済的な余裕は心理的な余裕も生む。
感情的に激高しやすいタイプであると自覚するのならば、ますます家族を作ることから遠ざかるだろう。
しかし低感情社会はお互いに本音を言い合うことのない仮面家族のようなものも生み出すだろう。「ぼっちな食卓 限界家族と「個」の風景」という本を以前読んだが、こちらには対立を恐れてお互いに踏み込むことを全くしないバラバラな家族の事例が出てくる。
お互いにののしりあうほどの激しい感情をぶつけ合うようなこともだめだが、対立を恐れてお互いに踏み込むことをまったくしなければ、その家族もうまくいかない。
家族がうまくいくためにはおそらくその間を目指さなければならないのだろう。
それが一番難しいのだ。家族を作って生きていくことが難しいのはそれが理由だ。
人は贈与でもめるのか
人は結局贈与でもめているのだろうか?私はこれだけ相手に与えたのに、相手の贈与のお返しが私のあげた分と釣り合わない、量が少なすぎる、このことで相手に不満が生まれて争うことになる。お互いの贈与の量が釣り合わないからもめているようだ。贈与は目に見えるものではなく、お互いの感じ方でしか判断できないので、私が与えた分のお返しが十分ではないと不満を抱いている相手に対して、相手側は自分は十分なお返しを与えているにも関わらずなぜ不満を抱くのか、贈与は釣り合っているはずだという主張になっている。贈与は目に見えない感じ方だけなので、客観的な状態がどうであれ、相手からのお返しが不十分だと思ったら不十分だという認識になる。
人々は贈与を巡る争いに疲れ果ててしまって、贈与が客観的に目に見える形になればいいのにと思ったところから資本主義が生まれたような気がする。資本主義は等価交換であり、この内容はこの金額になっていると客観的にわかる。だからわかりやすい。贈与の争いに疲れ果ててしまった人々は資本主義というものを知って、贈与の関係を資本主義に全部置き換えれば楽に生きられるようになるかも?と希望を抱いた。そして資本主義が広がっていったのかな?
付き合う相手を選ぶのが難しいこと
付き合う相手を選ぶのは難しい。素直に考えるのなら、どうせ付き合うのなら一緒にいて楽しい相手、感じのいいひと、気の利く人などを選びたいと思う。しかしここに問題がある。感じがよくて付き合いたいと思わせる人の中に高確率で詐欺師がいる可能性が高いことである。不器用で感じがよくなくて、一言余計なことを言って人を怒らせるような人はおそらく詐欺師ではない可能性が高い。本人が詐欺師に騙されている可能性はあるだろうが、本人自体は詐欺師ではないだろう。詐欺師である可能性があるかもしれないが感じのいい人を選ぶのか、人を騙せそうにないが感じの悪い人を選ぶのか。感じのいい人を選んで付き合い続けてこれはおかしいなというところに気づけて付き合いをやめる選択肢ができればいいがそうはうまく運ばないだろう。この人はいい人という第一印象のまま気づいたら相手に丸め込まれて騙されていたという結末が待っている可能性が高い。ジレンマである。このような点があるから付き合う相手を選ぶことは難しい。
なぜ詐欺師に騙されるのか
なぜ詐欺師に騙されるのか。たとえばロマンス詐欺とか、ネットだけで知り合った誰だかよくわからない相手にお金を送ってしまったりするのはなぜなのか。よくわからない相手をなぜ信用してしまうのかと不思議に思っていた。がそれはよくわからない相手だから騙されてしまうのではないのか。つまり親しくない相手には嫌なところがないのだ。ある程度付き合いがある相手、実際に会って交流を何回も繰り返しているような親密な関係にある相手には嫌なところがある。人間誰にだって欠点や嫌な部分が必ずあるものだ。付き合いを続けていて嫌な部分があることにも気づくが、許容できないレベルの欠点でなかれば付き合いを続けていく。嫌な部分が全然ない相手というのはほぼいないので。そのへんはある程度折り合いをつけて付き合いを続けていく。がまだ深く付き合っていない相手には嫌な部分がない、それは付き合いが深くないので嫌な部分を知ることがまだできていないだけなのだが。よく知らない相手だから限られた情報だけですべてがいいイメージであるように錯覚することができる。相手の欠点がまだ見えないので想像だけでいいところだけがある人のように錯覚することができて、そのような状態だから騙されてしまうのではないだろうか。
つまり騙されるのはよく知らない相手だから。親密な関係ではない相手だからだろう。と考えると合点がいく。
すべてがよい人、欠点が全然ない人という幻想の相手がいることにしたい願望が騙されることを引き起こす。
現代社会の問題点は詐欺師が多いこと
現代社会の問題点は詐欺師が多いこと。信頼したら騙される、自分に不利益が来るような相手の数が多くなっているのではないか。たとえば10人の人と知り合いになったら過去の時代だったらその中に詐欺師が最低2人ぐらいはいた。それが今は10人の人と知り合いになったらその中に最低5人ぐらい詐欺師がいるというように詐欺師の含まれる確率が高くなっているのではないだろうか。それが生きていく上での漠然とした不安感をもたらす。過去の時代は共同体が決まりきったメンバーで閉じていたから、詐欺師の方が少なかった(詐欺行為を働いたら共同体から追い出されるから)。しかし人の交流が盛んで一度きりしか会わない可能性の高い人が多くなったのだから、詐欺師は増えるだろう。詐欺のターゲットにできる相手は無数にいるし、詐欺師だということがばれたら共同体を変えればいいのだから。