議論をしてもなぜ対立や分断は解消されないのか

議論をして対立や分断を解消しようという試みがある。しかしうまくいかない場合がある。なぜなのか。それは対立や分断が生じていても困らないからである。

たとえばある会社でA部門とB部門が対立している場合があるとする。A部門とB部門で対立を解消しようと議論をしてお互いが折り合いをつく妥協点を探る試みをする。ここで妥協点を決めることができずお互いに折り合いがつかない状態のままだったらその会社は運営に問題を抱えることになるだろう。だからA部門とB部門のメンバーは対立を解消しようとする。もしこのまま対立が解消されずA部門とB部門のメンバーがお互いに協力できないままだったら会社の業務は滞りその会社は破綻するだろう。会社が破綻することより、相違のあるメンバー同士がお互いに妥協点を見いだして協力するほうがよいと考えるなら、対立は解消される。

しかしA部門とB部門のメンバーが妥協点を見いだして会社の同じメンバーとして協力するより、会社が破綻をするほうがよいと考えるなら(具体的には部門にいる人たちがこの対立のある会社とは離れて他の会社に勤めることを選ぶ場合、あるいは部門AとBが別々の会社に分かれることを決める場合など)対立を解消しなければならない動機はない。

議論で対立を解消するという話を聞くたびに、議論で対立を解消しなければならない動機があるのかどうかがいつも気になっていた。意見の相違を抱えるメンバー同士が意見の相違を乗り越えて同じメンバー同士で協力して何事かなさなければならない課題を抱えているのなら、対立を解消しようとするだろうが、そうでなければ対立が生じていても構わないのではないのか。

そもそも議論をする目的は何なのか。ある問題を抱えていて、その問題を解決するために提案Aと提案Bがあり、どちらを採用したらいいのかを決める場合であれば、議論をすることに意味はあるだろう。提案Aと提案Bのどちらを採用するか、あるいは提案AかBを採用するより現状維持のほうがよいという結論になるかもしれないが、何らかの結論は下されるだろう。

議論には対立を解消することが目的でないものもある。

意見の相違のあるAグループとBグループが聴衆の前でどちらの勢力が優勢であるのかを見せるためのパフォーマンスとしての議論である。聴衆はお好みのグループを応援していればいい。

政治家同士の討論なんかはわりとパフォーマンスとしての討論であり、お互いの意見の妥協点を見いだして問題の解決を図るために行うものではない。聴衆は自分の応援する政治家側について討論を楽しんで見ていればいい。政治家は自分の応援団が喜ぶようなことを言ってみせて、聴衆の期待に応え、自分のパフォーマンスを見て自分の応援団が増えることが起こればなおよいだろう。

目的が違うのだ。パフォーマンスとしての議論を見て、対立が解消されなかったと問題視する人もいるのだが、それは対立を解消することを目的としてなされていないものなので当然なのである。

議論をしても対立や分断が解消されないのかはそもそもそれを目的としていないものだからである。

対立を解消するために議論を行いたいのなら、意見の相違を抱えているメンバー同士で協力しなければ解決できない課題を持つことをして、その課題を解決する方法を話し合うという内容の議論をしたほうがよい。