空気を読むことをもしやめるなら

空気を読むことをお互いになぜすることになったのか。お互いに意見をはっきり表明することなく、空気を読みあって逸脱する行動をしないようにするのは、共同体が崩壊するのを恐れてのことだろう。できるだけ今の共同体のメンバーで同じ共同体を長期間続けておきたいという思いがお互いの空気を読みあう作法を作り上げていったのだろうと思う。

だからもし空気を読みあうことを嫌だと思うのなら、今いるメンバーでずっと続いていく共同体を目指すことをやめなければならないと思う。

共同体のメンバーが空気を読みあうことなく、率直に意見を交換し自由に振舞えるそういう共同体を理想と考えるのなら、おそらく共同体がずっと長く続いていくということを目標としてはならない。共同体がずっと永続的に続くことを目標とすれば、共同体のメンバーが自由に物を考えて率直に口をするような自由は失われるだろう。共同体の崩壊を恐れるから各々がどう振舞うべきかをお互いに牽制して空気を読み合わないといけないような規範が出来上がってしまうのだ。

共同体のメンバーにとって今現在が一番大事であると考えるとよいだろう。将来のことはあまり考えない。今現在メンバー同士がどういう状態であればよいのかをすり合わせて共同活動をする。もちろん意見の相違や不和は起きるだろう。それは仕方がないことだ。空気を読みあってお互いの行動を縛ることをしないのだから。そうした場合、どう話し合っても無理な意見の相違のあるメンバーが共同体を出て行くこともあるだろう。しかしそのことを嘆いてはならない。今現時点での意見の相違である。生きるか死ぬかのような深刻な対立にする必要はない。共同体の中の多少の分裂は起こり得ることだ。

どうも同じメンバーで一度共同体を作ったら永続してそれを続けなければいけないと強硬に思い込みすぎている人が多いように思う。

共同体は複数ある。一つだけではない。複数の違う性質を持った共同体があり、各々が自分の性質にあった場所を選ぶ、そういう柔軟性をもっていたほうがよいように思うのだ。

そうしてまたしばらく時間がたって一度共同体を出て行った者がまた加わりたいと思い戻ってくることもあるだろう。そうしたらまた受け入れたらよい。また対立が起こることもあるかもしれないが。そしてまたその対立に対応すればよいだろう。起こらないこともありうるし。

結局起こりうることにはその都度対応するしかない。起こりうることを将来起こらないようにあらかじめ対応しておくことはある程度可能かもしれないが、すべての起こりうることへの対応は無理であろう。それを心配しすぎて、精神的に負担になったり、対応策にならなそうな無意味な対策を無理矢理するよりも、起こった後に対応するほうがましかもしれない。

メンバーが空気を読みあって永続性を目標とする共同体がいいのだという意見の人もいるだろう。そういう人はそういう人で集まってそのような共同体を作ればよいだろう。

大事なのは何を重視するのかを決めることだ。一番優先したいことは何なのか。そしてそれを優先したら両立するのは無理な性質のほうはある程度犠牲にしなければならないだろう。