FC(ファシリテイテッド・コミュニケーション)に思うこと

saltboxcomic.blog.jp このサイトでFC(ファシリテイテッド・コミュニケーション)というものがあることを知った。なぜこのようなものが出てきてしまうのかを考えた。これは自閉症の子供を持つ親が自分の子供を「普通の人たち」に仲間だと思ってほしいと願うことが原因なのではないのかと思った。おそらくありのままの自閉症の状態では「普通の人たち」に仲間だとは思ってはもらえない。しかしFCの考え方で作られた「自閉症児」であれば「普通の人たち」は自分たちと同じである、共感できる存在だと考えてくれるだろう。その思いがFCというものを作り出しているのではないのだろうか。

人が一般的に誰かを自分の仲間だと思う場合に、どういう基準で仲間だと考えるかというと、その人物に自分と同じだと思える特徴がある、その人物について共感できる要素がある場合だろうと思っている。同じ出身地だとか同じものが好きだとか、何か共通の要素がある、また考え方が似ていて共感できるなど。人が仲間だと思えるには同質性が必要だ。

人は一人では生きていくことができない。だから仲間を求める。仲間だと思われないことはつらいことだろう。

しかし「普通の人たち」であっても無条件で仲間になれるわけでもない。仲間に見える集団でもメンバー一人一人は当然違いがある。しかし彼らは仲間であるためにお互いの違いは覆い隠して、共通点を強調する。自分とメンバーたちの同じ要素を特に強調し、同じである、仲間である雰囲気を作り出す。共感できるものは常に必要なので、共感できる内容のものを次々と生み出しては共感してみせる。流行の〇〇というものが常に新しく生み出され流行り、廃りまた生み出され続けているのは、同じ夢中になれるものを追いかける状態をたびたび作り出すことで仲間である雰囲気ができるからだ。しかしこれはずうっと続けていなければならない。同調圧力で共通の同じ考えをメンバーが皆持っている状態を作り続けようとするのも、同じである状態を維持しないと仲間であるとお互いに思い込めなくなるからだ。そして中身のある会話をお互いにすることは難しくなる。なぜなら込み入った難しい議題についてなど議論したら、お互いが実は違う考えをもっていることが判明して、お互いの違いが際立ってしまう。意見の対立があると仲間でなくなってしまう。

仲間であり続けるというのは大変なことだ。