協力してやるべきことがあるときに仲間ができる

仲間だと思える人たちと仲間だと思えない人たちがいるわけではない。協力してやるべき課題を見出した時に協力者を集め、協力活動をしている最中に仲間だと思える人たちが自然にできあがるのだ。つまり仲間を手に入れるためには協力してやるべき課題を見出す必要がある。活動が最初で仲間は後でできるという仕組みだ。そこが誤解されている。仲間だと思える気が合う人たちがいるわけではない。協力してやるべき課題を一緒にやるという活動を通して一緒にいる人たちをだんだん気心の知れた仲間だと思い込むようになっていく。つまり協力しあう人たちは誰でもいいかもしれない。協力活動を通して仲間意識ができていくだけだから。

人は身内集団内でどうふるまう方がよいかということしかわからない

人は古い時代において身内集団を作って暮らしてきた。だから身内集団内でどうふるまう方がよいかということしかわからない。だから身内の人間が間違いを起こしてもかばいだてをする。そして自分たちの共同体が正しいのだと主張する。またマウンティングをして有効なのは身内集団内でのことである。身内集団の外に別の共同体があるということはわからない。実感できない。今は身内集団の外に広がる国家というより大きな共同体に所属して生きているということもわかっていない。そのようなことは実感できない。見える範囲が身内集団だけである。その外には何も見えない。その外にいる人たちは見る必要がないから見ない。

すでに身内集団というものを自分が持っていない状態になっていたとしても、そのような変化が起こっていることにも気づかない。身内集団は空気のように当たり前にあったはずだから、自分は身内集団に所属しているはずなのである。だから以前として身内集団内で有効だった方法を機械的に繰り返している。しかしその方法が効果を発揮する対象者がいない。対象者がいないのだからそのやり方を繰り返していても何も起こらない。反応すべき相手が誰もいないのだから。しかしほかのやり方を知らないので、昔覚えた行動を機械的に繰り返す。無意味に繰り返すのみだ。

 

SNSでトラブルが起こる理由

人が日常でする会話は基本的に顔見知りの人たちの間で交わされる。顔見知りというのはどういうことかというとある程度の期間付き合いがある相手であり、この人はこういう人だということがわかっている相手である。だから話す内容+それを話すのはAさん+Aさんはこういう考えの人+AさんとBさんの関係はどうであるかなどといういろいろな情報が組み合わさって会話の内容が理解される。私の周りにはAさん、Bさん、Cさん、Dさんといろいろな人がいる。Aさんから聞いたBさんの話は私の理解を通して、Cさんに話してもいいがDさんには話さない方がいいなどという細かい配慮がされる。それは顔見知りの間柄の中の人間関係の濃淡による。私はAさんとは親しいがBさんとはAさんより親しくないなどという関係性がある。日常会話は顔見知りの人たち全員にすべての情報が伝わるわけではない。伝わる人と伝わらない人がいる。相手がどんなことで不快に思うかをあらかじめ情報として知っているから伝えることと伝えないことを取捨選択できる。しかしSNSはすべての情報がすべての人に伝わってしまう。そこが問題を引き起こす。

SNSで話す内容はSNSを利用するすべての人たち、場合によっては世界中の人たちにまで伝わってしまう。それを伝えたら不快に思うタイプの人たちにも意図せずに伝わってしまう。そしてトラブルになる。

しかし人が会話をするとしたら、いきなり通りすがりの全然知らない人に話をすることはない。それはだいたい知っている人、顔見知りの誰かに対してだけなされる。だからSNSのような場にあっても、顔見知りの誰かに対するようについ会話をしてしまう。つまり反応が予想される相手である。反応が予想されるのは会話を伝えるのが付き合いのある顔見知りの人たちだけだからだ。SNSで日常会話はしない方がいい。誰に対して話しても一律反応が予想される内容に限定すべきである。たとえば時候の挨拶、解釈が何通りにもなるような込み入った内容ではない単純な内容のもの、あるいは客観的に発表されることが多い論文のような内容である。

 

国家は気に入らないかもしれないがほかの共同体よりまし

人が生まれ落ちた時にすでに国家という体制がある。しかし国家は居心地が悪い。なぜか気に入らない。その理由はおそらく自分が選んだわけでもない人たち、場合によっては気に食わない人たち、あるいは嫌いな人たちと勝手に同じ共同体の一員としてチームを組まされているからである。すでにある国家という体制は自分が嫌いな人たちと同じチームだと勝手に決められている体制である。

同じ共同体の一員である人たちを自分の好みで選びたい、自分の好みで同じ共同体の一員である人たちを選べれば理想の共同体ができるだろうという幻想がある。その幻想をかなえたい。だから国家は居心地が悪い、不快なものに感じられるのである。

しかしそれは幻想にすぎない。自分の好みの人たちを選んで共同体を作ったからと言って理想の共同体はできるわけではない。おそらくできないだろう。

顔見知りの人たちで構成される身内の共同体は作る前は居心地の良い快適な空間になる気がするが、長続きしない。そのような共同体は、メンバーが私たちは仲間であるという気持ちをお互いに持ち続けることで共同体を維持できる仕組みである。その「仲間である」と感じる気持ちの維持が大変なのである。「仲間である」を信じさせる特別な儀式が必要になったりする。その儀式の維持にコストがかかる。しかも大変なコストと労力をかけて「仲間である」を維持しようと必死に努力したにも関わらず、いろいろな要因(さまざまな理由が考えられる:たとえば災害や敵が攻め込んでくることや天候不順による飢餓あるいは内紛など、特に内紛は身内の共同体内では異常に発生率が高い)によってあっけなく壊れる。

基本的に身内だと感じられる安心できる共同体は、短期間しか維持できないものであると心得るべきである。長続きすることをそんなに期待せず、壊れる機会が来たらあきらめて壊れるに任せる、あるいはメンバーの「仲間である」気持ちの維持が薄れたら壊れるに任せるというぐらいの感覚でいる方がよい。国家がなかった時代は今よりも不安定な環境で人間は生活をしていただろうから、生きるために必要な共同体を作ったが壊され、あるいは自ら壊しを短期間で繰り返しながら共同体を離合集散しながら生きていたのだろうと思う。平均寿命も今よりずっと短かったため、共同体は短期間維持できるぐらいで問題はなかった。だから共同体が壊れることをそんなに恐れることもなかった。共同体より自分の命の方が短いケースが多かっただろうから。

環境が安定し人はより長く維持できる共同体である国家を作り生活するようになった。

国家は戦争の時代に勝つために(より人数の多い共同体を作った方が有利だったから)作ったに過ぎなかったのだが、人々が今まで作っていたなんとなく身内だと感じられる小規模な共同体より長続きすることが作ってみてわかった。だから引き続き国家という体制を続けているのだろう。国家をなくしたら、身内の共同体を作っては壊し、あるいは壊されるを繰り返して離合集散し続けながら生きていく不安定な生活をもう一度繰り返して生きていくことになるから(いつも一緒に生きる人が常に変わる)、それよりは長続きする国家を続けている。さしあたりほかに適当な共同体の仕組みがないからである。

 

 

必要なのは欲望を修正すること

よりよい状態で生きるには欲望を修正することが必要である。たいてい人は漠然と実現しそうにないことを欲望している。たとえば、何もしないで幸運が転がり込まないかなというような都合の良いことを考えている。その場合、自分がどのような状態だったら幸せな気分になるのかを具体的に考える。その具体的な内容がどのようなことをしたら実現するのかを現実的に考える。そして実行する。そのプロセスを考えることで今よりよりよい状態に移行することが可能になる。漠然と抱いている実現しそうにない欲望の状態をより実現可能な内容に修正することが必要になる。

弱い側は敵と戦わずに降伏することを選ぶ

弱い側は敵が攻めてきたら戦わずに降伏するまたは逃げることを選ぶ。なぜならば弱い立場にいる人は少人数の同じような弱い立場の人たちと共同体をつくり、その中で協力してぎりぎりの状態で生きている。だから余力がない。戦うには資源がいる。資源を多く持ち多くの人たちとそれなりの規模の共同体を作っている人でなければ、敵と戦う選択肢は取れない。基本的に攻めて来る敵はそれなりの規模の共同体の中におり、協力してくれるメンバーを持っている(だからほかの共同体に喧嘩を吹っ掛けることができる)。数の上で圧倒的に差があるので弱い立場の人たちは降伏することを選ばざるを得ない。もしそれでも戦うことを選ぶなら、圧倒的な数の差がある場合、より小規模な共同体を作っている側は殲滅される可能性がある。自分と仲間が生き残る方法は降伏するまたは逃げることだけである。

強い敵には降伏するしかないという考え方を持っている人は弱い側にいると自覚している人たちである。もしそのような考えを持っている人に敵と戦うことを選ぶ考えを持ってほしいのならば、強い共同体に招待すればよい。私たちの共同体に所属すれば敵が攻めてきたときに戦って勝利するやり方を選ぶことができると伝えるのだ。そして同じ共同体のメンバーとともに協力して何かを成し遂げることができるということを経験させる必要がある。そのようなことを経験したからこそ、敵が攻めてきたときに仲間とともに戦っていこうという考えを持つことができる。

協力する機会の喪失

何人かで集まって協力して何かをやり遂げるための機会がないのが問題なのである。協力して何かをやり遂げることができたという精神的な満足感を満たす機会がない。だからなんだか生きていてもむなしい。集まって協力して何かをやり遂げる機会がある人もいる。それはだいたい何かをコツコツと続けていき、何らかの実績を積んだ人である。そのような人は周りの人から何かの能力を持っている人(実績からわかる)と認められている。能力のある人は何かをやり遂げたいという目標を持つ人たちからこの人に声をかけて協力してもらえれば自分の目標達成に貢献するだろうと思われる。だから協力を請われ協力する活動に参加する機会を得ることができる。何ができるかわからない人は声をかけてもらえない。何らかの活動に参加するために自ら動きその機会を探すことをすればよいのかもしれないが、具体的に関心を持つ活動を見つけられない場合、特に関心をひかれるものがない場合はどうしたらいいのか。そのような漠然とした不満感を持っている人がネットなどで自分の参加できそうなものを見つけるとすると、敵味方に分かれて争っているグループに吸い込まれてしまうことが起こる。敵側のグループの人たちをネットで叩く(つまり書き込むことをする)だけで参加できるのでやることもお手軽である。協力して何かをやり遂げる精神的満足感も得られる。仲間がいる気分になって気持ちがいい。そのような活動に夢中になって誰かを誹謗中傷するひどい行為に加担することになってしまう。自分がグループを作ってそのメンバーで協力して何かをやり遂げる機会がないことに不満があることには気づいていない。なぜ自分がこのような誹謗中傷活動に夢中になっていたのか後で我に返って(訴えられたりして)後悔することが起こる。