国家は気に入らないかもしれないがほかの共同体よりまし

人が生まれ落ちた時にすでに国家という体制がある。しかし国家は居心地が悪い。なぜか気に入らない。その理由はおそらく自分が選んだわけでもない人たち、場合によっては気に食わない人たち、あるいは嫌いな人たちと勝手に同じ共同体の一員としてチームを組まされているからである。すでにある国家という体制は自分が嫌いな人たちと同じチームだと勝手に決められている体制である。

同じ共同体の一員である人たちを自分の好みで選びたい、自分の好みで同じ共同体の一員である人たちを選べれば理想の共同体ができるだろうという幻想がある。その幻想をかなえたい。だから国家は居心地が悪い、不快なものに感じられるのである。

しかしそれは幻想にすぎない。自分の好みの人たちを選んで共同体を作ったからと言って理想の共同体はできるわけではない。おそらくできないだろう。

顔見知りの人たちで構成される身内の共同体は作る前は居心地の良い快適な空間になる気がするが、長続きしない。そのような共同体は、メンバーが私たちは仲間であるという気持ちをお互いに持ち続けることで共同体を維持できる仕組みである。その「仲間である」と感じる気持ちの維持が大変なのである。「仲間である」を信じさせる特別な儀式が必要になったりする。その儀式の維持にコストがかかる。しかも大変なコストと労力をかけて「仲間である」を維持しようと必死に努力したにも関わらず、いろいろな要因(さまざまな理由が考えられる:たとえば災害や敵が攻め込んでくることや天候不順による飢餓あるいは内紛など、特に内紛は身内の共同体内では異常に発生率が高い)によってあっけなく壊れる。

基本的に身内だと感じられる安心できる共同体は、短期間しか維持できないものであると心得るべきである。長続きすることをそんなに期待せず、壊れる機会が来たらあきらめて壊れるに任せる、あるいはメンバーの「仲間である」気持ちの維持が薄れたら壊れるに任せるというぐらいの感覚でいる方がよい。国家がなかった時代は今よりも不安定な環境で人間は生活をしていただろうから、生きるために必要な共同体を作ったが壊され、あるいは自ら壊しを短期間で繰り返しながら共同体を離合集散しながら生きていたのだろうと思う。平均寿命も今よりずっと短かったため、共同体は短期間維持できるぐらいで問題はなかった。だから共同体が壊れることをそんなに恐れることもなかった。共同体より自分の命の方が短いケースが多かっただろうから。

環境が安定し人はより長く維持できる共同体である国家を作り生活するようになった。

国家は戦争の時代に勝つために(より人数の多い共同体を作った方が有利だったから)作ったに過ぎなかったのだが、人々が今まで作っていたなんとなく身内だと感じられる小規模な共同体より長続きすることが作ってみてわかった。だから引き続き国家という体制を続けているのだろう。国家をなくしたら、身内の共同体を作っては壊し、あるいは壊されるを繰り返して離合集散し続けながら生きていく不安定な生活をもう一度繰り返して生きていくことになるから(いつも一緒に生きる人が常に変わる)、それよりは長続きする国家を続けている。さしあたりほかに適当な共同体の仕組みがないからである。