共感のジレンマ

共感で排除された人は共感で人を排除したくないと思う。しかし人に対するとき自分も共感で対応していることに気づく。共感以外で人に対応するにはどうしたらいいのかと悩む。

首尾一貫した論理を持っていてそれを変えない人ならよいのか?

この人は首尾一貫した論理のある人だ、きっと信頼できるだろうとそういう人とつきあうことに決めてみる。

しかし相手の論理的態度にイライラしていることに気づく。論理的なのは分かるがそれは人間としては冷たい態度なのではないのかと反感を持ってしまっている。

論理的な態度を貫かれると、そこでは人間としての誠意を示して対応を変えるべきではと思う局面が出てきて、相手がそれを変えないことに苛立つ。

別の場合では、首尾一貫した論理を持っていると思っていた人が対応を変える局面に苛立つ。自分が身内とみなす相手だと論理を変えるのか、首尾一貫した論理を持っているはずじゃなかったのかと失望する。

首尾一貫した態度をずっと貫かれても苛立つし、首尾一貫した態度が貫かれなくても苛立つことになる。

自分が何を相手に求めているのか、どうあるべきなのかが分からなくて混乱する。

自分でもはっきりしない内面の基準がどういう理屈で成り立っているのか、それが分からない。

結局のところ自分の持っている基準は共感というあいまいなものであり、その共感の基準で人が適切な態度を示さないと苛立つようになっている。

それはある局面では首尾一貫した態度が貫かれていることを好ましいと感じ、ある局面では首尾一貫した態度が崩れることを好ましいと感じる。

そしてその局面がどういう場合なのか自分でもそのときになってみないと分からないのである。