閉塞感はなぜ生じるのか

閉塞感はなぜ生じるのか。現状がよくないと思われるときに、現状をよくするためのよいやり方が思い浮かばないからである。そのため何もできない、することができないという現状に対するコントロール感を失うことより閉塞感は生じる。しかし現状をよくするためのやり方がなぜ思い浮かばないのか。それにはおそらく人が昔より賢くなったことが関係している。かつて人はそれほど賢くなかった。いろいろな物事がどういうふうに組み合わさって物事が生じているのかの原理をあまりよくわかっていなかった。そのため、かつては何か問題が生じていると思ったら、その問題を取り除く安易な手段を思いついて、それのそのまま実行していた。だから問題が生じたら問題をなくすためのやり方は簡単に思えていた。しかし人は賢くなったので、過去の時代より複雑に物事を解釈できるようになった。具体的には何か問題が生じたからといって安易な手段でそれを取り除いたら、そのあとに別の不都合が生じたり、思ってもいなかった副作用が生じて、問題を取り除いたのにも関わらずもっと状況が悪化するということになることがわかってきてしまった。だから人はもっと複雑に問題に対して対策を考えるようになった。安易なやり方で問題に対応した後に起こりそうな状況を想像して、この問題解決方法を実行するのはやめようと判断するようになった。そのため安易で楽な解決方法を採用できなくなった。人が賢くなったことで、何か思いついたらさっさと行動できた過去の時代より、実際に行動できることの範囲が狭くなったのだ。それは人が賢くなって以前の時代より複雑に物事を解釈できるようになったことにより生じた。

知識人という人たちがいる。物事を複雑に解釈することが得意な人たちである。市井の普通の人たちは問題が生じたときに安易に思いつく楽な解決方法をやりたいと思う。がおそらくそのやり方をするとこのような不都合が生じる可能性があることを知識人から指摘されるだろう。そのため安易で楽な解決方法しか思い浮かべることができない一般の人たちは問題解決に参加できる機会が以前より少なくなった。自分より賢い人がいてその人が彼らの考えの底の浅さをすぐに指摘してくる。そのたびにあまり賢くないと自覚している人たち(あるいは自覚させられた人たち)は自分が問題解決に参加することができないことを思い知らされる。自分より賢い人がいることを自覚させられる一般の人たちは自分は何かを成し遂げることができたという体験を得る機会を失っていく。何かを成し遂げることができたという体験を経ることで自己肯定感が育まれるとしたら、彼らはどこで自己肯定感を得ればよいのか?自分は何もできない無力な存在であることを自覚させられながら生きていくほかないのか。そのような状態で生きていく一般の人たちが増えることで閉塞感が広がっていく。