集まれればなんでもよいのか?

本来は集まれればなんでもよいわけではなかった。あくまで集まったメンバー同士がお互いに協力して何らかの活動をすることで自分たちの生存状況を有利に変えるということが目的とされていた。自分たちの生存状況を有利な活動を協力して行うために集団を作る。それが本来のあり方だった。しかし人は集まるだけで精神的に満足感を得るようになっている。また自分たちの生存状況を有利にするために協力して行わなければならない活動を見いだせない場合もある。その場合集まっても協力するための活動がない。だから集まる意味もない。しかし集まるだけで精神的な満足感を得ることができるので、何もする活動がなくても集まることをしたくなる。だから集まるために何か適当な活動を作り上げることをするようになった。またお金を出せば何らかの集まりに参加できる場合でもお金をだして参加することを望むようになった。そしてだんだん集まれればなんでもよいと考えるようになっていった。悪い場合には何らかの反社会的活動のために集まることもする。悪いことでも集まることができるので精神的な満足感を得る。それが陰謀論や反科学の活動などの場合でも同様である。集まるきっかけを提供してくれるものなら何でも歓迎したくなる。社会的に役に立つ活動に関心が持てるのならそれらの活動を集まってやることで満足できるだろう。しかしすべての人がどちらかというとよいことにつながる活動に関心を持てるわけではない。

自分が関心をもてるものが陰謀論や反科学のようなものしかなかった場合、それらが集まるきっかけを与えてくれるのでその活動に飲み込まれていく。