人と交流するのは自分の生存を有利にするため

人と交流するのは自分の生存を有利にするためだ。だから付き合う相手を自分の生存が有利になる相手であるかどうかという基準で選んでいる。しかし人は自分の動機が自分の生存を有利にするためであるという生臭い理由であることを認めたくない。だからどうしてその人を自分が付き合う相手として選んだのかを道徳的に正しい人であるからだとか、優しい思いやりのある人であるとかいう公言しても大丈夫なオブラートに包んだ理由をでっちあげる。そして自分で自分についたその嘘の理由を信じてしまう。

ここで一つ問題がある。自分の生存を有利にすることに貢献する人が見つからない場合だ。そのような人が周囲にいない、もしくはいたとしても相手が自分を付き合いたい相手として選んでくれない場合だ。その場合人は自分の生存を有利にするための交流相手を得られない。得られない場合はどうなるか?

その場合、人と交流することで生存を有利にする以外の自分の生存が有利になる方法を探すことをする、またそのような方法もない場合は素直に諦めるべきである。

とりあえず現状維持に徹してやり過ごすほかない。しかし人は自分の生存を有利にするための方法がなにもないという現状をそのまま受け入れてやり過ごすことがどうしてもできない。自分の生存を有利にするための何らかの方法はあるべきであると強く思い、時にはそのような方法を(実際はないのに)でっちあげて作り出す。そこから呪術的思考が生まれる。これをすれば自分の生存が有利になるはずだという実際には有効でない何らかの思考体系を作り上げる。

人と交流することで自分の生存が有利になるはずであるべきだという考えに固執した場合、実際は交流したら自分に悪い影響しか与えない人しかいない場合でも、その人と付き合おうとする。そしてこの人と付き合うと自分の生存が有利になるはずだというでっちあげた思い込みに固執してボロボロになりながらその人と付き合い続けたりする。

なぜ自分がボロボロになりながら傷つくだけなのにこの人と交流することをやめられないのか?自分でもその理由がわからない。なぜだかわからない理由のままその人と交流することをし続けている。人と交流することの目的が自分の生存を有利にするためだという生臭い理由を封印しているから、そのひどい相手と付き合い続けることに固執する自分の意図が自分でわからない。自分の生存を人と付き合うことで有利にしたいのにそれにふさわしい相手がいない(見つからない)現状を受け入れて現状をただ淡々とやり過ごして生きていく、ただそれだけのことができずに、やらないほうがいいことをやってしまうのが人である。今現状を有利にするためにできることは何もない、という現実を受け入れることができないことが、やると害になることでもやってしまう人の問題点なのだ。