仮説 

古い時代においては人は顔見知りの人たちだけがいる小さな身内だけの共同体内に閉じこもって暮らしていた。外の共同体の人たちとのかかわりをほとんどの人たちはする必要がなかった。おそらく共同体内のチームリーダー的存在の人とそのバックアップをするような立場の人たちだけが、外の共同体の人たちとの交渉事を担当していた。小さな共同体内にいたほとんどの人は自分たちの共同体に忠誠を誓う態度を示すことだけに気を付けて生きていればよかった。たまに自分たちの共同体内の規範に従うことのできないタイプの人が生じることがあったが、そういう人は我慢して規範に従うか、外部の別の共同体を探して移動するかの道を選ぶぐらいだった。

過去の時代の小さな共同体は共同体内で自給自足に近い生活をしており、自分たちの必要なものを生産し、自分たちの共同体内で消費する体制に近かったのではないかと思う。その場合共同体のメンバーを際限なく増やすことはできない。基本的に共同体内の資源をメンバーに分配することで共同体が維持されていく。共同体内で生み出される資源量にメンバーの数が制約される。メンバーが増えすぎると中で何らかの軋轢が起こり、過剰になった人たちが追い出される。

人間の人口が増えていったことで身内の共同体内に人々が閉じこもって暮らしていく生活を送れなくなったのではないのだろうか。共同体同士が貿易をすることで資本主義のようなシステムができていった。共同体は自給自足で自分たちのメンバーだけのために生産するだけでなく、外部の共同体向けの生産活動をするようになった。その場合共同体内のメンバーの数の制約を考えなくて済む。共同体内で次の世代を作る担い手になるには共同体内で一定の身分を獲得している人たちだけだったのだが、それ以外の人にもその機会が巡ってくるようになった。そしてますます人口が増えていく。外部の共同体向けの産業に従事する人たちもどんどん増えていった。

身内の共同体内で閉じこもって生活をしていたのは、どこかの共同体内で分配される資源をあてにして暮らしていくしかなかったからだ。しかし外部の共同体の人たち向けの産業に自由に従事すれば住むところにこだわらなくてもよい。

身内の共同体から出ていって割のいい産業に従事すればもっと儲けることができそうだと思い、儲かりそうな産業に従事するために共同体を出ていく人も現れるようになる。

そして身内の共同体の力は弱くなっていった。身内の共同体内に閉じこもってその共同体の規律に従い協力しながら共同体を維持していったメンバーが減っていったからだ。メンバー達も外部の共同体のための経済活動に従事するようになっていったので、共同体の資源をあてにするためにしがみついている必要がなくなった。自分が好きな外部の共同体向けの産業に従事して、自分で稼いだものを自分のものにすることができるようになった。以前は人は自分の所属している共同体内で経済活動を行い、経済活動で得たものは共同体のためのものになり、そこからの分配をあてにして暮らしていく必要があった。今その機能を担っているのは国家であろう。おのおのが稼いだ資金は基本的に自分たちの生活のために使い、その中から一部税金として国家に徴収されていく。小さな共同体内の縛りの厳しい規律に従って行動しなくてもよくなった。基本的に従うべきなのは国家が定める法である。

現在は古い時代とは違い、一人一人が顔見知りの身内のメンバー以外の人たちとかかわりを持って暮らしていっている。顔見知りの人たちだけで構成された小さな身内だけの共同体にはもう所属していない。

身内の共同体に近いものとしては地域のコミュニティ、会社、何らかの宗教団体、家族ぐらいしかない。それらの共同体も流動的で自分が生きるであろう年数まで維持できるかどうかわからない。人の性質として顔見知りの人たちで構成された身内の共同体的なものに所属している状態が一番安心する。だから何らかの身内の共同体的役割を果たすものに所属したいと願う。しかしそれらの共同体の寿命はそれほど長くない。かつては身内の共同体以外に頼るすべはなかったので、この共同体を維持しなければという強い思いがあった。しかし今はそれはない。またかつては共同体内の生産活動は共同体内で完結している仕組みがあったので、共同体を維持するためにメンバーたちが力を合わせて協力して共同体内の資源を維持するということをすればよかったのだが、今その仕組みはなくなってしまった。外部にいるいろいろな人たちの個別の欲求に応じた経済活動にめいめいが従事しているため、資源の状況は外部の経済状況に左右される。共同体は外部の経済状況によって存続を左右させられるようになった。だからメンバーが何らかの協力を頑張っても共同体の維持は難しくなったりする。それが今の状況である。