国境とイマジン

イマジンの国境がない世界の歌詞が話題になっていた。

国境がなくなれば平和な理想郷が実現するという考えらしい。

しかし私がずっと考えているのは人間は国家という大きな共同体を作ってずいぶんたったが、いまだに国家という共同体にはなじむことができなかったということだ。

人間にとって安心できる共同体は自分の顔が見える範囲の少人数の小さな部族集団なのではないのか。国家はものすごく大人数の構成員のいる巨大すぎる共同体であり、メンバーの顔を全員見ることができない。人間はわれわれという意識を持てる内集団の中にいて各々が自分の役割をその共同体の中で果たすことができ、一体感の意識を感じることができるときに心地よさを感じる。しかしそういう共同体は小さな共同体でなければ無理だろう。共感を感じる相手だけがいるような小さな共同体だ。一人の人間が共感を感じることができる人数には限りがある。国家ではは人が多すぎる。

そして国家ではわれわれという一体感を感じる共同体を作ることは基本的に禁じられる。なぜならわれわれ意識を持てる共同体の一員になったらそっちの小さな共同体の方が国家より大事な帰属先になってしまうから(そのために国家を作るときに地域共同体は壊されていった)。資本主義で人の流動性を作ることができて、部族集団に留まろうという動きを止めることができる。

国家と資本主義はセットになっている(国家ができる動きがなければ資本主義もこんなに拡がっていくことはなかっただろう)。

部族集団を作ろうとする人間の感情は抑制されなければならない。

国家にいてもわれわれ意識の持てる共同体の一員になっているという感情が満たされることがない。

最近はSNSができ、われわれ意識の持てる擬似的な共同体モドキを簡単に作ることができるようになり、抑制していた部族集団感情がよみがえってしまった。

また人間はわれわれ意識を持つ共同体の一員となり、敵と見做した別集団と対峙し、戦う行為をすることでまた感情的に満たされるという厄介な性質を持っている(特にSNSの擬似的な共同体モドキでは、誰をわれわれの一員と見做し誰を敵と見做すのかは時と場合による流動的なものである。そのときの共感を誰に抱くかに左右されるので。)。

国境のない世界を夢想するよりも前に国家に適応することを目指すのかどうかを考えたほうがいい。