対話の必要性

対話に関する本を読んでいた。そこにこう書いてあった。思ったことを感じるままに話すとおしゃべりになる。おしゃべりは相手に話しているように見えながら、実際は相手のことを考えない行動。相手に向かって話しかけているが、殆どの場合、何らかの答えや返事を求めて話しているのではなく、ただ自分の知っている情報を独りよがりに話しているだけ。他者としての相手の存在をほぼ無視してしゃべっている。相手は相槌を打つだけ。今度は相手も自分の思いを語り始め、それぞれに感じていることや思っていることを吐き出すと、お互いなんだかすっきりしてなんとなく満足する。ストレス発散の点では効果を持つがその次の段階には進めない。 

おしゃべりは感情の発露の効果はあるのだがそれだけで終ってしまう。

よく本当の友達が欲しいとか、友達に囲まれているけど孤独で自分の本当の気持ちを話せる人がいないということを言う人がいる。その意味が分かった。

おしゃべりをする相手ではダメなのだ。本当の友達の意味するところは対話をする相手が欲しいということ。

対話はおしゃべりとは違う。対話は一つの話題をめぐって異なる立場の他者に納得してもらうために語る。ことばに

よって他者を促し交渉を重ねながら少しずつ前に進む。 相互関係構築のためのことばの活動である。

対話という言葉の活動によって相手との人間関係を作っている。人間関係はあなたと相手の二人だけの関係ではなく、それぞれの背負っている背景とつながっている。

その背景はそれぞれがかかわっているコミュニティと深い関係がある。相手との対話は他者としての異なる価値観を受け止めることと同時に、コミュニティとしての社会の複数性、複雑さをともに引き受けることにつながる。

対話は難しい。対話のできる相手のいる人はいるだろうか?

対話は異なる他者と共生するコミュニティを作り出す試みにつながる。対話のできる相手ではないとコミュニティはできあがらない。しかもコミュニティの形は異なる他者と対話を繰り返すことで変容しながら生み出される。形は定まらない。自分がコミュニティの一員であると感じることができるのは対話をする相手がいるからだろう。そうでなければ人は孤独のままだ。

対話をする相手を人は求めているのだ。