家族が形成されなくなってきたのは資本主義が所有の概念をもたらしたから

家族が形成されなくなってきたのは資本主義が所有の概念をもたらしたからではないのかと思う。

家族、もしくは地縁血縁に基づく小さな共同体は身内意識を持つ。身内意識を持つ共同体は所有の概念が曖昧だ。共同体内で所有を厳格に定めることを快く思わない。身内の共同体内では富を皆で平等に分配しなければならないという共同体規範意識を持つように思う。

身内の共同体は財を協同で協力することで築いてきた(たとえば農業のような形で)。皆で協同で作物を育て収穫するという作業を行う、そのため分配することに抵抗はなかった。しかし資本主義が所有の概念をもたらした。各々が分業をするようになり、違うことに従事し違う収穫物を得たり物を加工したりして、それを市場で売り買いをするようになった。そうすると運の要素、個人の能力の要素などさまざまな要因で富の格差ができる。大きな富を築いた人は自分の成果を自分だけのものにしたいと思う。身内の共同体内に富を自分だけのものにしたい人たちが増えて、身内の共同体が解体されていった。

地縁血縁に基づく小さな共同体がなくなっていった先に身内の共同体意識を持つ小規模な家族が残った。

家族の間では所有の概念が曖昧だ。だが資本主義が広まることで、家族間でも富の所有をめぐって富を分配することに抵抗する考え方が入ってきた。しかし家族間で厳密に富の所有を決めることは困難だ。特に子供、元々富を所有していない存在に対してはどうしたらいいのか。

家族を作ったら自分の富を自分だけのものと考えることができなくなるだろう。それがどうしても嫌であれば家族という関係性を作らなくなる。

資本主義の市場の関係は自分の富を増やすことができる目的をかなえるためにお互いに協力をするという仕組みだ。各々が自分の富を増やすという目的を持って行動すると協力も発生する。協力したほうが自分の富が増えるから協力するのだ。

身内の共同体はお互いが身内という特別な関係性で結ばれているという理由で協力をする関係だ。ただしお互いが身内という特別な関係だと思い込むためには、身内でのみ通用する特別な共同体ルールが設定される。それは明文化されることなしにお互いの何となくの空気の読み合いのような形で決定していく。そうしてそのルールにしたがわないと心情的に気持ちが悪いという感情とルールがセットになって各々がその感情に抵抗できないのでルールに従うということがもたらされる。

明文化しない共同体規範に従うのは意外と難しい。周囲の人の行動を見ながら徐々に自分の意志や行動を表明してそれが受け入れられるのか、それとも非難されるのかを観察しながら少しずつ自分の行動を決めていくようなものになる。大変まどろっこしいし時間がかかる。しかもなぜそのルールが決まったのかに明確な理由がない。

資本主義の市場のルールは守らなければならないルールはきちんと明文化されている。理由もはっきりしている。わかりやすかったので誰でも参加できる。

資本主義の分かりやすさと富を自分のものにしたい考えが普及して資本主義が広がっていった。