人の認知の限界

たとえば熊を駆除することを非難する電話がかかってくる件が時々ニュースになることがある。

熊が危険であるということを実感できない外野の人たちがニュースで知り、熊がかわいそうだと思い意見を言ってくるのだろう。なぜこうなるのかというと熊の危険性を感じるためには実際に自分の身体を熊と接近させて体で命の危険性を感じる体験をする以外に方法がないからだ。その際に体で感じる緊張状態、危険だという嫌な感じ、恐怖などの感情が「熊が危険だ」という実感を後押しする。

熊は危険なのだと主張する人は熊がもっと身近にいる環境にいたので、その危険性を身をもって体感することができたのでその危険性を理解している。

人は脳が発達して抽象的な概念を構築することができるようになったために、理解するためには頭の中だけで概念をこねくりまわせば済むというように考えがちだが実際はそうではない。

理解したと本当に思うことができるには体でもって体験をすることが必要である。

しかし人は脳を発達させ文明を築き、資本主義や国家、民主主義など体で体験して分かることが難しい抽象的な概念を多く作りすぎた。

もともとの人の物事の理解の仕方は頭の中だけで概念を組み立てることではなく、実際に体で感じて理解することに基礎を置いている。だから体で実感して理解することをしなければ分かったことにはならないのだ。

資本主義や国家、民主主義などの抽象概念はおそらく頭の中で複雑な概念を構築するのが得意なタイプの人たちが作り、そのシステムを広げることに成功した。しかし人の大部分は体で実感しないと物事を理解することが難しいタイプの人である。そういう人たちは抽象的概念が得意な人たちが理解するのが難しい思考を勝手に作り、その思考に基づくシステムで動くように世界を変えてしまったことにずっと違和感を持ち続けてきた。抽象的概念をうまく使いこなすタイプの人々が資本主義というシステムの中で経済的に成功していくことにも不快感を持っていた。

体で体験しないと理解に至らないタイプの人たちが自分たちは取り残されているという不満を持つようになった。

そして分断が生じたのである。

抽象的概念を理解することが得意な人たちと体で体感しないと理解したという実感が得られない人たちの間の分断である。