実名報道をなぜするのか

実名報道をなぜするのかについて考えてみた。

一般的に人が誰かの実名を知っているというのは、親しい関係にある人の場合である。ある人物が亡くなってその人の名前が公開されて、その人の人となりが紹介されると実際は自分とは縁遠い人物であっても、まるで親しかった人が亡くなったような気分になり、見ている人も悲しい気分を共有できるようになる。身内意識になる。同じ共同体に所属しているかけがえのない人だったのだとその人のことを思ってほしいのだ。同じ共同体に所属している大事な人が亡くなったという気分を抱いてもらい、このような悲劇を繰り返してはいけないと実感してもらいたい。そのために実名報道をするのではないのかと思う。つまり共同体意識を持ってもらうためだ。

人に誰かを害するようなことをしないですむためには、同じ共同体のかけがえのない人であるという意識を持ってもらうことが必要である。人には同じ共同体(身内集団)の一員を殺してはならないという強力な道徳的掟が存在する。それを守ってもらうためである。

ただ共同体の一員としてどう振舞うことが正しいあり方であるのかという道徳的掟は、親しい人の死を個人として悲しむことを難しくさせる。

たとえば自分の身近な人の死が国を守るための名誉の死であると共同体の道徳的掟では思わないといけない状況というのが過去にあったように思う(共同体の道徳的掟は時代によって変わる)。今でも身内の人が亡くなった場合に葬式をあげたほうがいいのかということが問題とされる。それは共同体の一員として葬式をあげるのが正しい振舞い方であるという共同体の道徳的掟があるからだ。

実名報道が批判されるのは、共同体の一員として正しい悲しみ方をしなければならないという考え方から離れて、匿名のままで自分の親しい人の死を個人として悲しんでもらいたいという気持ちがあるからではないだろうか。