ゲーム依存症について

人の大雑把な設定は快を感じることをやろうとし、不快を感じることはやりたがらないようになっている。人がほかの人と関係を持つことをしようとするのは、ほかの人と関係をしている状態から快の感覚を得られるからだろう。つまり人と交流をすることが楽しいと感じるのでやろうとするのだ。しかし人と交流することよりもっと快を感じることがほかにあるのなら、人と交流するよりそちらのほうをやるようになる。

ゲーム依存症を問題視する考えの根底にあるのはそのような考え方であるように思う。ゲームをやっても人と交流することをやらない状態にならなければ特に問題はない。

しかし人と交流することにからは快を感じることも確かなのだが、不快を感じることも起こる。誰かと友好的な関係を継続して続けることができ、喜ばしい感情を感じる状態でいることをずっと続けていくのは難しいのだ。仲たがいをしたり、けんかをしたり、傷つけることをされたり、傷つけることをしてしまったり、人間関係のトラブルはいろいろ起こる。傷つきあい、傷つけあいながらも人間関係の交流から楽しみを引き出せるように練習して試行錯誤を重ねて、人間関係の型のようなものを習得するには時間がかかる。その習熟する過程に入る前にたとえばゲームのようなもっと簡単で楽しみを得るものがあったら、人との交流の仕方を習得するというある意味楽しみを得られるようになるまで時間のかかる行為をやろうとするだろうか。そのような問題意識がある場合にゲームを問題視する考えになるだろう。