承認欲求と人の見える世界の狭いこと

承認欲求というものがある。他人に認められたいという欲求のことである。しかしこの承認欲求はどこにいる誰に対して向けているのだろうという疑問がある。

たとえば一億人ぐらいの人々から認められたいなどと思うものだろうか?大勢の人たちから認められることになるのは結果論である。ユーチューバーになってみたら自分のことを少人数の人が知ってくれることが起こるとする。それだけで割と満足するのではないのだろうか。ものすごい有名なユーチューバーになって全国規模で知ってもらおうという大きな目標を最初から抱いている人は少ない。かえって大勢の人々から知られるようになったら、それほど大きい承認欲求を抱いているわけではなかったので、困惑する。自分の好まない不本意な人々から関心を持たれることには不愉快な気分になったりする。なぜそうなるのかというともともとそんなに大勢の人々から承認されることなど求めていなかったからだ。

多くの人は自分の周囲にいる自分と関係のある少人数の人たちだけから認められたいと思うのだ。ねたみ、嫉妬というものは自分と同程度かちょっと上ぐらいで自分と関係の近い人に対して抱くものだそうだ。自分と関係のない人たちのことは特にねたましくは思わないらしい。ライバルとみなす相手だって自分と近い関係にある人である。承認欲求も自分の周りにある小集団内で満たされればそれで満足するだろう。多くの人はそんなに大きな野心を持たないものだ。自分を愛してくれる少数の人々に囲まれた少人数の居心地のいい空間だけを求める。井の中の蛙大海を知らずということわざがあるのだが、多くの人は井の中の蛙の王にはなりたいと思うだろう。しかし大海の王になりたいなどと思うのだろうか?多くの人は大海を見ることはできない。自分のいる井までしか認識できない。井の外に広がっている大海の存在には気づかない。認識できる世界は井だけである。そうしてその小集団内の他のメンバーとの競争(承認欲求をめぐるものから富をめぐるものなどいろいろ)に疲弊して苦しんだりする。