共同体維持派

大抵の人は共同体維持派である。共同体維持派の優先することは共同体維持である。共同体維持派は自分の主張を強く持たない。自分の主張を強くすることは共同体の崩壊をもたらすだろうと思い、強い主張をすることを避ける。自分の欲望を直視することも避ける。自分の欲望を認めれば、欲望を実現することをしたくなるだろう。それは共同体の崩壊をもたらすことにつながると考える。自分の欲望をないことにし、自分自身からも自分の欲望の存在を見えないようにしてひたすら共同体が維持されることを望む。共同体の崩壊が何よりも一番恐ろしい。共同体の崩壊をもたらす可能性があることをないことにすることを望む。しかし自分の欲望を押し殺しないことにしようとしても、欲望は欲望である。ないことにはならない。ないことにならないものをないことにしようとするとどうなるか。欲望は心の奥底にしまわれ、そこで存在していることをずっとしつように主張し続ける。共同体の維持と自分の欲望の表出の板挟みになり、なぜ自分だけが我慢しなければならないのかという不満をくすぶらせるようになる。共同体の崩壊を恐れることをやめれば、自分の欲望を素直に認めてそれを実現するために行動するにせよ、行動しないにせよ、欲望があることだけは認めることができるようになるだろう。そうすれば楽になるだろう。あるものをないと無理やり思い続けるよりはずっと楽になるだろう。しかしそれはできない。共同体は絶対に維持されなければならない、そのためには自分を押し殺すことが必要だという考え方から自由になれない。

共同体の崩壊が怖いのは、共同体の存続と自分の生存が切り離せないことになっているからだ。共同体が崩壊すれば自分もきっと死ぬだろう。その考え方から離れることができない。

しかし共同体が崩壊したとしても、別の共同体に移動するか、再編成されたメンバーで共同体を開始することもできる。

また自分がいくら頑張って共同体の維持を試みていたとしても、共同体とは複数のメンバー間の力で成り立っているものだ。ほかの要因で共同体の崩壊がもたらされることは起こりうる。自分ひとりだけの力で共同体の維持は無理なのだ。

共同体維持派は共同体内に問題があることも認めることができない。問題は何も起こっていないというふりをしていれば、共同体が維持されると思い込みたがる。しかし問題が大きくなれば、ないことにはできなくなる。何らかの手立てを打たなければならない局面がいずれ訪れるだろう。問題が大きくなってから手を打つことになるので解決にさらにエネルギーを要するものになったりする。問題解決に動くということは何らかの変化を起こすことにつながるので、共同体の維持に影響がでることは想像できる。それを避けたいのだろう。しかし問題をないふりをし続けていたことで、初期に対応していれば共同体の崩壊を招かないで済んでいたのに、問題が十分進行した後に対処することになったので、問題解決するために共同体の維持はあきらめなければならなくなることもある。本末転倒である。共同体の維持を望みながら、共同体の崩壊をもたらすことを結果として引き起こす選択をしてしまった。そのようなことも起こりうる。

私自身は共同体維持派ではない。共同体の維持をあきらめなければならない可能性は最初から織り込み済みである。問題がある場合解決をしたい。問題を認識して解決の方向を検討するとき、最初は今の共同体を維持する範囲内で解決する方法はないのか模索する。実際にその方針で問題解決の行動に着手する。しかし共同体の維持と問題解決の両立は可能ではない局面にきたときには問題解決を優先する場合、共同体の維持はあきらめる。もしくは共同体の維持を優先する場合、問題解決の放棄をする場合もある。問題が大きく致命的なもの(人命を損なうような内容だったりした場合)だったりすると、問題解決を優先する選択をするだろう。問題解決を優先する場合、問題解決を放置して共同体の維持を優先する考え方の人たちと対立することになるだろう。それが問題解決を優先する場合に共同体の崩壊をもたらす結果になることが起こるときのパターンだ。

共同体の対立と分裂、再編成は大変な難題である。簡単にできることではない。しかし共同体の維持をあきらめなければならない事態は起こりうると考えているので、その場合なるべく穏当で平和的な共同体の再編成を模索したいと思う。