不本意な生き方をしてしまうのはなぜなのか

不本意な生き方をしてしまうのはなぜなのか。それは生物の基準の成功を満たすことを目指してしまうからだろう。生物の基準とは死んでいるか生きているかのどちらであればいいのかの基準である。もちろん生きている状態が生物の基準では成功である。

ただ生きている状態でありさえすればいい。どんな状態で生きているかは問われない。

たとえば強い敵が目の前にいたとき、戦わずに逃げれば生き残る可能性が高まる。しかし強い敵に尻尾をまいて逃げたことは屈辱である。生物の基準であれば、生きている状態を保てたのだから成功なのである。しかし強い敵を目の前にして逃げ出したという屈辱感を抱きながら生き続けることになる。その生はあまり楽しい状態ではない。

また周囲に合わせて自分の本当の気持ちを押し殺して生きていれば共同体の中で無難に暮らせるだろう。自分の本当にしたいことを主張してその行動をした場合、共同体のメンバーから不興を買って共同体内の自分の地位が危うくなったり、下手したら共同体から追い出されたりすることが起こりうる。共同体から追い出されたら所属できる別の共同体を見つけることができなければ孤立して死を迎えることになる。

共同体の中で自分のやりたいことを我慢して周囲の人たちに合わせて行動していれば生きている状態を保つことができる。生物の基準では成功だ。しかし内心不満を抱きながら生き続けることになる。その生はあまり楽しい状態ではない。

お互いに我慢している人たちで成り立っていてメンバーが内心不満を抱きながらそれを口に出せず、時々その不満の解消するために共同体の中で排除されるターゲットができたり、誰かを貶めたりする陰険な行為が起きたりするが、長い目で見ればその共同体の中で生き続けることができている。たまに排除の動きが起き誰かが具体的な犠牲者になることもあるが、自分がそのターゲットにならなければとりあえず生きている状態が続く。いつ自分が排除のターゲットになるのかびくびくしながら生き続ける状態であるかもしれないが、生きている状態であるのだから成功だ。

どういう状態で生きているのをよいと考えるかは人間の基準だ。生物の基準では生きている状態でさえあれば成功である。その生物の基準での成功がよいと思えないのなら、人間の基準でよいと思える状態を目指すしかない。それは生きている状態であることを第一の目標にしない生き方になるだろう。もしかしたら死ぬかもしれない行動を起こすことを選択する生き方になる。