自分が共同体の中でどれぐらいの重要度を占めているか

人が一番知りたいことは自分が共同体の中でどれくらいの重要度を占めているのかである。自分がどれくらいの重要度を占めているかで自分が共同体から排除されることになるのか排除されないでいられるのかが決まると思っている。だから四六時中自分の重要度がどれくらいであるのかを確認する行為をやめられない。

そのためには共同体のメンバー達と交流をしなければいけない。話をしたり一緒にいて何かを共有したりして、メンバー達からどれくらい重要度を与えられているかを確認する。自分の考え、意見めいたことを言ってみてどれくらい賛同されるのか、あるいは気分を害されるのか確認する。自分の考えなどは特になくてもいい。なんとなく空気を読んでこういう考えが主流なんじゃないのかなとか、多くの人が賛同しそうな意見を言ってみて、賛同されたり賞賛されたりするようならこの考え、意見を言っておけば大丈夫であろうと推測する。それでその意見を自分の意見ということにする。

仮の設定である。自分はこういう考え方をするこういうタイプの人であるという設定を作る。そしてその設定に従って行動をしてみる。

噂話は重要である。噂話に参加しておくことで今現在の主流の意見がどれなのか確認しておく。主流の意見は変わっていく。過去に賞賛された考え方が今では時流遅れになっていることもしばしば起こる。だから噂話に参加して世論?が今はどういう内容になっているのかを確認しておく。そうしてそれに合わせて生きていく。

共同体で人が生きるということはしばしばこういうことをしていくことになる。だから主体性を持つなんてことは実はとても難しい。

主体性を持って生きることは共同体から排除される危険を伴う行為である。排除されてもいいと思える人、あるいは出ていくことになってもそれを受けいれられる人は主体性を持つ生き方を目指す。

しかし共同体は残酷なところで、上記の努力を一生懸命していても排除されるときが来たら排除されるのである(だいたい共同体内の資源が減少するということが起こった後、誰かあるいは誰か達が排除のターゲットになる)。こんなに共同体に合わせて一生懸命努力していたのに排除されることになってしまい、恨みごとを述べている人がいっぱいいる。努力は報われなかったのだ。

だから共同体に合わせて無理をして生きていても排除されるときは排除されるという諦念を持っている人は主体性を持つ生き方を選んでいる。