弱者と人を助けること

自分は弱者の側であるというポーズをとることの意味は自分はあなたより立場が下で弱い側であるという表明である。それは誰かに助けてもらいたいときに行う。つまり人から助けられる立場になるためには、自分は弱者であるというポーズを取らなければならない。弱者ではないように見える人は他者から助けを得ることができない。

弱者であるというポーズを取られると、「人間らしい感情」をインストールされている一般の人間は助けなければならないという感情を呼び起こされ、その人を助ける行為を行うよう促される。それは自動でインストールされている人間の設定である。もし弱者に見える人を助ける行為をしなかったら気が咎めるし後ろめたい気持ちを抱くようになっている。

もしサイコパスのようにこの「人間らしい感情」がインストールされていない人間の場合、どうなるか。ただ相手が弱者に見えるポーズをとっているなと認識するだけである。

そうして客観的な情報から相手は形だけの弱者ポーズを取っているだけなのか、本当に命の危険にさらされていて人の助けを必要とする状態なのかなどを判断する。そのあとにその相手を助けるかどうかを決める。その際、もし相手を助ける行為を自分がしなかった場合でも相手に対して気が咎めたり、後ろめたい思いをすることはない。そのように感じる感情もインストールされていないから。

一般の人間でもすべての人に対して弱者であるように見えることに同情して助ける感情を促されるわけではない。あくまで自分が感情移入できる相手だけに抱く感情である。

感情移入できる相手というのは一般的に自分の身近にいて生活を共にしている交流のある相手、親しい間柄にいる相手である。助けなければならないという感情をかき立てられる自動設定は人が少人数の共同体を作っていた時代に備わったものである。その状況では自分のそばにいることの多い人たちにだけ感情移入すればよかったのだ。感情の自動設定に従ってさえいれば、自分のいる小規模な共同体内で間違ったふるまいをしなくて済む。自然に感情移入できる相手だけに寄り添えばよかった。

しかし今は状況が違う。今では人は国家のような大規模な共同体を作っており、同じ国家にいるメンバーを同じ共同体の一員であると思わなければならない設定に従って生きている。昔備わった感情の自動設定に従っていれば、共同体(国家)内でのふさわしいふるまいを自然に行えることにはならない。

どちらかというとサイコパスのように感情移入できる相手かどうかに関係なく、客観的な情報から相手が人の助けを必要とする状態なのかを判断して行動する方がよい。個人の力で人を助ける行為をするよりは公的機関につなげたりして、国家の機能に頼るほうがよいだろう。