人の感情のいいかげんさ

たとえばある人がほかのメンバーから嫌われて、生まれ育った共同体から追い出されることがあったとする。しかしのちにその人が移動していった先で経済的に成功し、多くの人の賞賛を集める立場になることがおこる。そうするとその人を嫌って追い出した共同体のメンバーは突然、成功して有名になったその人物はほかならぬ自分たちの共同体にいた者であると誇らしく宣伝し始める。自分たちの共同体にいたときから見どころがあり、将来成功する可能性を持っていたことを自分たちは知っていた。そのときからその人物は共同体の中で賞賛を集めていたし、我々はその人物を誇りに思っていたのだと主張する。自分たちがその人物を嫌っていて追い出したことをすっかり忘れている。忘れているというよりは自分たちの都合のいいように過去の記憶を書き換えているのだ。

過去にその人物を嫌いだったという自分の感情をもう覚えていない。ずっと昔からその人物を好ましい相手だと思っていたのだと今は信じている。

相手に対する好悪の感情は状況次第で簡単に書き換えられる。状況が変化したら過去にその人物に対して抱いていた好悪の感情は都合よく書き換えられてしまう。人間の感情というものは実にいいかげんである。

たとえばAという人物がBという人物のことを嫌っていたとする。しかしのちにAはBと協力してことに当たらなければならない状況が起きてそれを避けることができないとしよう。その場合Bに対して嫌悪の感情を抱いていることは協力の邪魔になる。だからAは徐々に感情を変えていく。自分はBを嫌っていたがそれはBのことをよく知らなくて誤解していただけだったのだ。Bのことをよく知るようになったらBは悪い奴ではなかった。今ではすっかりBのことを好ましい愛すべき相手だと思っている。Bと協力することをしたくなるようにBに抱いていた感情を都合よく書き換えたのだ。Bは実際のところ何も変わっていない。Aが嫌っていたBの特徴は何も変化していない。たとえばBの他人に気を使わないぶっきりぼうな態度を以前は無礼であると不快に思っていたのが、今は気取らない正直な態度でそれがよいところだになっていたりする。

人の感情は実にいいかげんなのだ。状況次第で都合よく書き換わってしまう。しかし本人は相手に対する感情を自分が都合よく書き換えたことをわかっていない。

自分が嫌われているのならその相手は自分を嫌っていても困らない状況にいるのだろう。困る状況になれば嫌悪感を簡単に捨てて変えてくれるだろう。