コロナ禍なのになぜ人は誰かに会いに行ってしまうのか

コロナ禍なのになぜ人は誰かに会いに行ってしまうのだろう。

感染症の危険を気にしないのだろうか?もしかすると感染症の危険よりももっと大きな危険があり、そっちのほうが大きいからではないかという仮説を思いついた。

人にとって一番危険なのはおそらく同じ種である人間だろう。

人は他の人間から暴力によって殺される危険が大きかった。だから他の人に襲われないように群れを作って、自分に危害を加える人がいたら仕返しをする仲間が自分にはいるよというPRをする。実際に他の誰かと集まっているのを周囲の人に見せれば、仲間のいる人だという証明になる。だから人に会いに行くのではないだろうか?

あるいは別の仮説。

人は自分の周囲にいる人が信用できる人なのか、自分に危害を加えるかもしれない危険な相手なのかを見分けたいと思う。しかし信頼できる人にはこういうマークがあるというようなはっきりした特徴などはない。その人と実際に交流をしてこの人は信頼できる、この人は信頼できないと自分なりの基準を作って判断する(ある程度相手にレッテルをはることにつながるけど)。その場合、どういう人を信頼できる人と見なすのかの条件として、その人物が自分の周囲にいる身内の人、家族や友人にどういうふるまい方をするのかを見ているのではないのか。その人物が自分の身内の人、家族や友人に友好的にふるまっている、親切にしている、親密な交流を楽しんでいる様子であるなどの状況を見て、この人は信頼できる人であろうと判断するのではないのか。意識的に(無意識かもしれないが)身内の人たちと交流をしている状態を作らないと、その外側にいる周囲の人たちから信頼されることがないだろうと予測する。だから人は自分が親しいと思っている人たちに会いにいってしまうのではないだろうか、という仮説を思いついた。

結婚相手を選ぶさいに、この人が自分の親を大事にしているからという理由で選んだという話を聞いたことがある。だから身内の人を大事にしている人に見えると信頼できる人とみなす基準を人は持っているのではないだろうか。

しかしこれは相関関係で因果関係ではないような気がする。その人が身内の人や親しい人に親切に友好的にふるまっているからといって、親交のあつい友人がいるからといって、自分にとって信頼できる人とみなしてよい条件には実際のところならないだろう。

その人と家族、友人の関係とその人と自分の関係は別である。