人についての不平不満を言いながら生活すること

自分の周囲の人に対しての不平不満を口にしながら生活することはあまりよい生き方ではないように思える。しかし、不平不満を言いたい対象の人がいるということは、人間関係が切れてはいない、誰かしら関係のある人がいるということになる。少なくとも孤立しているわけではない。それは孤立していないという意味ではよいことではないのだろうか?

孤立していれば不平不満を言う対象の人物すらいないのだから。

自分の周囲の人が不平不満を言う対象にならない生き方のほうがよりよい生き方でそれを目指すべきだという意見もあるだろう。しかしそれは人格者とでもいうべき人間にならなければ難しいことに思える。どんなによい人に思えてもあらを探そうと思えば探すことは可能である。人のある性質を好ましくないものであると考えればそう思えるし、あるいはあの人がこういう言い方をした、この言葉にはこういう悪意があったのではないのかと疑おうと思えば疑える。何かしら悪い部分を人に見出すことは可能である。あらを探して、不平不満を言うべき理由をでっちあげることは可能である。誰に対しても不平不満を言わない人はあえて、人のあらを探すことをせず、その人の悪いところには目をつぶり、よいところに焦点をあててみるように心がけているのだろう。そのような人格者のような生き方を目指しても構わないが、それを目指さないで自分の周囲の人に対して不平不満を言う生き方をしてはいけないというわけではない。それはその人の選択である。どのような生き方をすると心地よいのかという点などを基準に考えることであろう。

人に対して不平不満を言うことに対して罪悪感が感じられるタイプの人は、人に対して不平不満を言うべきではないという考え方を持つような気がする。しかし人に対して不平不満を言っても別に心が痛まないタイプの人もいるようで、不平不満を言うことで相手がその欠点を改めてくれるかもしれないので、不平不満は言うべきだとさえ思っていたりする。しかし後者の考え方はよくない考え方であるという基準はよく考えると特にないのである。

自分はどういう考え方であるのかは人それぞれ違う。その自分の考えに従って生きることは(人格者を目指したり)別によいのだが、相手の考え方を否定する権利はないのだ。自分の周囲の人に対して不平不満を言いながら生きている人に向かってその生き方はよくない、なおすべきだと言わないようにはしたほうがよいのではないのだろうか。