共同体維持のための中身のない会話は悪いのか

共同体維持のためにする中身のない会話は悪いのだろうか。おそらく何も問題が発生していない通常の状態では中身のない会話をして一体感を築き共同体を維持し続けることはそれなりの意味がある。問題は共同体内に何か問題が発生したときだろう。

共同体維持のための儀式を続けることだけをしていれば共同体はずっと維持され続けるわけではない。共同体の崩壊は何か問題が発生したときにその問題解決に失敗することでもたらされる。しかし共同体維持の儀式は問題が発生している事実を覆い隠す。何も問題が発生していない雰囲気を作り、今日も共同体のメンバーは当たり障りのない中身のない会話をし続けて共同体は平穏に維持され続けていけるであろうイメージを作り、その偽のイメージに包まれて皆は偽の安堵感に包まれて共同体内で過ごす。

しかしそうしている間にも発生した問題が巨大なものになり、共同体内のメンバーの不和をもたらすことになる。そして共同体は崩壊する。

中身のない会話から中身のある問題を解決するための議論に移行して、何かの手段を講じて実際に行動することが求められる。

しかし共同体内で問題が発生したときに問題の発生をスルーし、見ないことにして何事もないようにいつも通りの共同体維持の儀式を続けてしまうことのほうが多いのはなぜなのか。

もしかすると、たいていの共同体内で起こる問題というのは、人間の能力を超えていることが多くて解決できることが少なかったのかもしれない。その場合問題を見過ごしてやり過ごしているうちに問題自体がなぜか消滅するという幸運に恵まれることをただ待っているほうがよいだろう。もし幸運に恵まれず問題が消滅しなかったら共同体の崩壊はいずれもたらされる。それは仕方ないこととして受け入れるしかなかったのかもしれない。たとえ自分の死やメンバーの死がもたらされるとしても。

たまたま共同体内に問題解決方法を思いつく人がいて、そのアイデアが採用され、共同体内のメンバーが協力することができて共同体が延命できるという道のりに入ることができるほうが望ましいが、その手続きを経て生き残った共同体はあまりなかったのかもしれない。